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黄金の夜明け団について

数ある秘密結社の中でも有名な「黄金の夜明け団」タロットデッキとも深い関わりがあります。今回はそんな、黄金の夜明け団についてまとめてみました。

 

黄金の夜明け団とは

黄金の夜明け団(The Hermetic Order of the Golden Dawn)は西洋の魔術結社である。G.Dと略名される。

現代西洋魔術の思想、教義、儀式、実践作法の源流になり、近現代で最も影響を与えた西洋隠秘学組織である。

この結社は男女の性差での待遇の区別をせず、男女平等に運営することが定められていました。黄金の夜明け団は3つの団(オーダー)による階層構造があり、第一団の「黄金の夜け団」は一般団員用で基礎教義を学び、第二団の「紅薔薇黄金十字」は幹部団員専用で高度な実践を行い、第三団は「秘密の首領」らが在籍する霊的団体とされた。この三層の総称として黄金の夜明け団と呼ばれていた。

 

黄金の夜明け団のバラ十字

黄金の夜明け団の薔薇十字

黄金の夜明け団はカバラを基本とし、キリスト教神秘主義や錬金術、エノク魔術、ルネサンス時代の魔導書研究などを経て、これらを総合した魔術を編み出そうとしました。

また特徴的だったのが、黄金の夜明け団の位階を制定する際に[セフィロトの樹]の図形に当てはめた教団特有の位階制度を構築したことでした。

黄金の夜明け団の創設

ウィリアム・ロバート・ウッドマン

ウィリアム・ロバート・ウッドマン

ウィリアム・ウィン・ウェストコット

ウィリアム・ウィン・ウェストコット

マグレガー・メイザース

マグレガー・メイザース

19世紀末のイギリスで、ウィリアム・ロバート・ウッドマンウィリアム・ウィン・ウェストコット、マグレガー・メイザースの三人が創設しました。三人は共にフリーメイソンでした。

 

ことの始まりはウェストコットが60枚の[暗号文書]を隠秘学分野の友人から解読依頼されることから始まります。彼は暗号文書を1887年に解読し、それが西洋神秘伝統の秘密結社の入門儀礼等を記した物である事を知りました。

さらにこの文書には、ドイツに在住する伯爵夫人で薔薇十字団のアンナ・シュプレンゲルという人物に、文書の内容に興味を持ったならば、連絡を取られたしとの内容も書かれていました。

その後、シュプレンゲルとコンタクトをとることに成功したウェストコットは、彼女が所属するドイツの薔薇十字系魔術結社より、ロンドンに秘教結社を創設する認可を受けることに成功します。

ウィスコットは友人であるメイザースに単純なものに過ぎなかった暗号文書をしっかりとした儀式に作り変えさせました。また、英国薔薇十字協会(SRIA)の最高位である至高術士ウッドマンを共同創設者に加えて、黄金の夜明け団が誕生しました。

神殿の開設

1888年3月1日に最初の運営施設となる「イシス・ウラニア神殿」がイギリスのロンドンに開かれた。続けて年内にイングランドの南西部に「オシリス神殿」が、続いてイングランドの都市ブラッドフォード市にも「ホルス神殿」が開設された。

さらにスコットランドの首都エディンバラに「アメン・ラー神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れてフランスパリに移住し、そこで「アハトル神殿」を立ち上げた。

またアメリカからの参入者も増えたので1900年までに「トート・ヘルメス神殿」など複数の支部がアメリカに設置された。

黄金の夜明け団の繁栄

1888年の設立当初は三人だけの活動だったが、広報活動を精力的に行い、着実に団員数を増やしていき1890年頃には総勢100名を超える大所帯となる。しかしこの年にドイツ薔薇十字結社との唯一の繋がりであったシュプレンゲルが亡くなってしまい、黄金の夜明け団はドイツの首領との関係を絶たれてしまい、独自の道を歩むこととなる。また、この年に高齢であった創設者の一人であるウッドマンが死去した。

1892年に創設者の一人であるメイザースはパリへと移住する。移住先で妻のモイナが霊媒的な素質に目覚め、ドイツ薔薇十字結社とは違う[秘密の首領]との交信に成功することとなる。この体験にメイザースは意を強くし、ロンドンに戻り団員に自分が秘密の首領の代理人を任せられたと宣言し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。

もう一人の創設者であるウェストコットは争いを避ける為にメイザースに同調したが、この頃から団内の不穏な軋轢が始まったとみられている。

黄金の夜明け団の転換期

1897年頃にウェストコットは突然首領職を辞して黄金の夜明け団を脱退した。これは当時、団員の誰かが賃馬車に団の文書を置き忘れ警察に届けられてしまい、そこからウェストコットと黄金の夜明け団との関わりが明るみとなり警察の上層部に知られることとなってしまったのだ。

公的な職業である検死官に就くウェストコットが秘密結社と関わりを持つことを警察上層部が快く思うこともなく、ウェストコットは脱退を余儀なくされてしまったといわれている。

こうして唯一の首領となったメイザースの独裁が始まる。その後、メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させた。しかしファーを始め、他の団員達はメイザースに不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。

フロレンス・ファーフロレンス・ファー

アレイスター・クロウリーの入団

1898年、ある一大人物が黄金の夜明け団に入団する。その人物こそがアレイスター・クロウリーだった。

彼は入団後、目覚ましいスピードで階位を上げ、実力を付けていった。またクロウリーはメイザースの信奉者となることで、団員達からの反感を買うことにもなった。

1899年、イシス・ウラニア神殿は団内の不評を買っていたアレイスター・クロウリーの昇格を拒否した。これに反発したクロウリーがパリにいる首領メイザースを頼ったことで新たな波乱が巻き起こった。

1900年にメイザースはクロウリーの申し出にこれ幸いと、反抗的なロンドン・メンバーへの皮肉も込めて、クロウリーを独断で昇格させた。その後、イシス・ウラニア神殿の運営を任せていたファー達が彼の昇格を不服として拒否し、イシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。

アレイスター・クロウリー

アレイスター・クロウリー

黄金の夜明け団の崩壊

メイザースはロンドンメンバー及びファーとの対立が続く中で、裏でウェストコットが手を引いていると思い込むようになります。彼はウェストスコットの信用を落とせば、ロンドンは切り崩せると考えました。そこでファーに、黄金の夜明け団設立時にきっかけとなった、ドイツの秘密の首領シュプレンゲルとのコンタクトをウェストコットはしていない捏造であったという事を暴露してしまいます。

この暴露により黄金の夜明け団は大きく揺れ動き、団員達は困惑してしまいます。ファー達はウェストコットの回答も得た上で事態収拾の会合を繰り返し開き、メイザースに捏造とする証拠の提示を求めました。

メイザースはファー達の予想外の追求に困惑し、要求を拒否しました。調停は決裂し、メイザースはロンドンのファーの解任を要求しましたが、逆にロンドンの会議で首領メイザースの追放が決定される事となりました。

これに激怒したメイザースはクロウリーを使ってロンドンのイシス・ウラニア神殿の保管庫にある重要文書と儀式道具を押収させて運営不能にする作戦に出ました。

これは保管庫の所在地からブライスロードの戦いと呼ばれたましたが、建物に押し入ったところで当然のごとく警察に通報されて失敗に終わりました。

黄金の夜明け団の分裂

プライスロードの件でロンドンの主要メンバーは、このメイザースの命によるクロウリーの暴挙に激怒しました。正式にメイザースとクロウリーを除名し、さらにメイザース派だった一派の除名も決定することにしました。

除名された一派はロンドンの別の住所にイシス・ウラニア神殿と同名の神殿を設立。これによりイシス・ウラニア神殿は二つに分裂した。また、傍観していたそれぞれの支部の神殿もファー派、メイザース派と別れ二分されていく事になりました。

黄金の夜明け団のその後

その後、いくつかの分裂、メンバーの脱退を繰り返し黄金の夜明け団は解体されていきます。

1901年にはファーは脱退、残ったファー派は[暁の星]と改称し活動を続けた。

1903年にはアーサー・ウェイト・エドワードが暁の星をイシス・ウラニア神殿から追い出す形で掌握し、[聖黄金の夜明け]と名乗るようになる。

一方、メイザースは1906年に黄金の夜明け団の幕引きを決め、組織を一新し[AO団]を確立し活動を続けた。

暁の星は1940年に前後に団員による教義暴露により消滅、聖黄金の夜明け団は1914年に内紛により潰滅、AO団は1918年のメイザースの死後も引き継がれたが、第二次世界大戦勃発後の1940年前後に自然消滅してしまいました。

アーサー・エドワード・ウェイトアーサー・エドワード・ウェイト

 

黄金の夜明け団も最後は分裂、消滅をしてしまいましたが、後世に非常に影響を与えた結社だったといえます。

 

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